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院長コラム|私が“治療”と呼ぶために必要だと考えている条件
院長コラム|私が“治療”と呼ぶために必要だと考えている条件
—独自の技術やエビデンスのないものを、あえて治療と呼ばない理由—**
|市川駅徒歩30秒のわかば鍼灸整骨院市川本院
はじめに
こんにちは。
市川駅徒歩30秒のわかば鍼灸整骨院市川本院 院長の土谷です。
今回は、少し踏み込んだテーマについて、
私自身の考え を正直にお話しします。
それは、
「何を“治療”と呼ぶのか」
という問いです。
これは誰かを否定したり、
特定の技術や考え方を批判するための話ではありません。
あくまで 私が、医療者としてどこに線を引いているのか
その定義を明確にするための内容です。
治療という言葉は、とても重い
「治療しています」
「これは治療です」
この言葉は、患者さんにとって
“治る可能性がある”という期待を生む言葉 です。
だから私は、
結果や根拠を説明できないものを、
安易に「治療」と呼ぶことに強い違和感を持っています。
私が考える「治療」の最低条件
私が“治療”と呼ぶために必要だと考えている条件は、
大きく分けて3つあります。
① なぜそれを行うのか説明できること
-
なぜこの刺激が必要なのか
-
どの組織・どの神経に対する介入なのか
-
何を改善させたいのか
これを 患者さんに言葉で説明できない行為 は、
私にとって治療とは呼べません。
② 体の仕組みと矛盾していないこと
解剖学・生理学・運動学など、
人の体の基本構造と照らし合わせたときに、
-
どこに作用しているのか
-
どんな変化が起きるのか
が説明できないものは、
医療として扱うには慎重であるべき だと考えています。
③ 再現性を説明できること
「たまたま良くなった」
「相性が良かった」
これらは治療結果ではありますが、
治療“理論”ではありません。
-
なぜ良くなったのか
-
別の人でも同じように改善が見込めるのか
この説明ができて初めて、
私はそれを“治療”と捉えます。
◆「独自の技術」が悪いわけではない
誤解してほしくないのは、
独自の工夫や経験の蓄積そのものを否定しているわけではない
という点です。
臨床経験から生まれた技術や考え方が、
患者さんの助けになることは確かにあります。
ただし私が重視するのは、
「それを治療として説明できるかどうか」
という一点です。
-
なぜその手技で改善するのか
-
どの組織・神経にどう作用しているのか
-
どういう状態の人に適応があるのか
これが説明できないまま
「独自だから」「感覚だから」と扱われるものは、
少なくとも私は治療とは呼びません。
エビデンスとは「論文があるかどうか」だけではない
「エビデンスがない=ダメ」
という単純な話でもありません。
私が考えるエビデンスとは、
-
体の構造に基づいた説明ができる
-
痛みの分類・鑑別と矛盾しない
-
治療結果に一貫性がある
こうした 臨床的整合性の積み重ね も含まれます。
ただし、
説明できない・検証できない・再現できない
この3つが揃ってしまうと、
それは医療というより“体験”に近いものになります。
なぜ私は線引きをするのか
理由は一つです。
患者さんに対して「治る可能性」を軽々しく約束したくないから
治療という言葉を使う以上、
そこには責任が伴います。
-
効果が期待できる理由
-
できること・できないこと
-
改善の見込み
これらを誠実に伝えるためには、
自分自身がその行為を“治療”だと説明できなければならない
そう考えています。
私が大切にしている姿勢
私は、
「これは治療です」と言う前に、
必ず自分に問いかけます。
-
これは本当に治すための行為か?
-
説明できるか?
-
再現性はあるか?
この問いにYESと言えないものは、
たとえ効果を感じた人がいたとしても、
私は治療とは呼びません。
結論:治療とは“信じさせること”ではなく“説明できること”
治療は、
-
雰囲気
-
言葉の強さ
-
独自性
で成り立つものではありません。
理屈があり、説明があり、結果につながること
これが揃って初めて、
私はそれを治療と呼びます。
患者さんへ
もし、
「なぜこの治療をしているのか分からない」
「説明がないまま進んでいる」
と感じたことがあるなら、
それは疑問を持って良いサインです。
市川駅徒歩30秒のわかば鍼灸整骨院市川本院では、
“治療と呼ぶ行為には必ず理由があります。”
それが、
私が医療者として大切にしている線引きです。















